ド素人が競馬を親しむ。-小説編-

競馬

 はっと思いついたように興味が湧きだした競馬。実は高校生のときくらいにも”光栄”というゲーム会社が出すゲームに一度はまりその熱におかされた訳だけれど、今回突然何かを思い出したかのようにそのゲームを無性にしたくなったのだった。

ド素人(私)が持っていた競馬に対するイメージ。

 競馬というと私のようなニワカからするととても取っ付きにくいイメージがある。何故なら普段から、あまり「飲む買う打つ」に興味のない部類である私にとって門外漢も甚だしい分野だと思っていたからだ。しかもあの熱狂にはとてもついて行けそうにもなかった。それというのも私が想像する競馬ファンというのは、週末になると朝っぱらから飲んだくれて競馬新聞を見ながら「ああでもないこうでもない」と思案する強面の中年ばかりを想像するのであった。

 近年カジノを解禁するとかしないとか、そういう話が持ち上がっている。しかし戦後から存在する公営賭博である競馬、競艇、競輪について一切眼中になかったし、その手のイメージといえばパチンコのそれであった。今競馬というものに興味をもった門外漢からすると、競馬は比較的健全であると理解したい気持ちになった。

競馬の持つ人文的な意味合い

 それは競馬のもつ別の特性に目を当てられるべきだと思えたからだ。人馬が歩む歴史の一ページを繋いでいること。人為的に生み出されたサラブレットそのものが魅力的であること。人馬が一体となる事で生み出される過程と結果が素晴らしいこと。私にとっては賭博というよりスポーツという理解のほうが近しいものとなっていること。

 だから今になってオグリキャップへの熱狂。トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス(のTTG)が沸かした時代。ウオッカとダイワスカーレットの牝馬対決。近年のディープインパクトの栄光などなど、それらが全てとても輝いて見える。

競技を応援する気持ちの”かたち”

 そうはいっても、馬券購入という賭博が主要な要素であることは忘れてはいない。ある意味これは正当化であるかもしれないが、あらゆるものが機械化される今日、古代より切っても切り離せなかった馬と人。競馬はそれらが共存できるシステムで、それを維持できるものが現代にあっては競馬しかないということに気付く。しかも中央競馬(JRA)は世界的にも高額賞金レースが揃い、経営努力で現在黒字。私は好きな馬やそれに関わっている人々への応援としての馬券購入にどちらかといえば株や寄付のようなイメージを持ったのだった。しかもこのシステムが崩壊してしまうのは実に惜しい気がする。

[aside type=”normal”]現代では農耕馬も必要なくなり、戦争でも騎兵なんていない。たまに儀礼で使われたりするくらいだろうか。今、馬は家畜化された種のみが存在しているとされている。馬と人は常に歩みを共にしてきた。そういう意味で、馬と人が一体となる機能は競馬でしか担保されていないのではないか。そしてそれが健全に維持存続されていくことは、重要な事だと思えた。[/aside]

 兎に角、競馬に魅せられたあとすぐにその雰囲気に飲まれたい気持ちになった。そんなときは競馬という夢を-。人生の疑似体験としての小説を手に取る事にした。そしてそれは正しい選択で、読了後もっとこの世界へ惹かれていくものだった。-ここに私の競馬の扉が開いたのであった。

Ⅰ.圧巻、競馬小説の名著。優駿。

 宮本輝という作家は人物を描くのが上手い。そう思った。登場人物たちにはそれを著した作家の内面、信条なども宿ってしまうところがある。そういう意味では、非常に恐ろしい仕事なのだと考えてしまうのであった。「優駿」の中では、とても多様な人物たちが競馬というものを通じて交錯する。そしてどんな生き物にもそれぞれ(個性として)の欠点が備わっていることを理解するものだった。恥部や後悔としての過去はどんな人にも存在し、またそれを通じて今を生きる事に繋がっている。そんな当たり前のことを思い起こさせる小説だ。オラシオン(祈り)は期待を背負う牡馬であるが、彼の名前は端的にこの作品をすべからく通底する思想でもある。

 何故こんなにも頁をめくる指がとまらないのか。そんな風に考えるとやはり素晴らしい文章と展開のお陰であると思える。この作品が吉川英治文学賞をとっている事にも合点がいく。読んでいると次の展開が気になって仕方がない自分がいる事に気付く。そしてのど越しの良い読みやすさが爽快だ。

 ところで近年の研究で、未だ野生種が残っていると思われていた蒙古馬のDNAは実は一度家畜とされたものである事が分かっている。それに伴って本来の野生馬はもはや絶滅してしまっていたこととなった。しかしこの蒙古馬も現代の家畜馬との関連はないのだそうだ。だがそうすると現在に残っている馬という存在自体が、少なくともヒトとの関わりの中で生存し続けていたものだと言える。そのように考えると競馬というのは人間の娯楽の為に行われているのではあるが、人と馬が目的を共有する行為として肯定したい気持ちになった。

 馬(オラシオン)を巡る、馬主、牧場主、調教師、騎手の人生に焦点を当てる物語。馬にも人間にもそれぞれの生き方があって、都会の喧騒と雄大な自然の対比がとても美しい。古典的な手法でコントラストがはっきりとしていて、読み手の喜怒哀楽を刺激する。くすっと笑みがこぼれる自分がいたり、考えさせられる自分が居たり。競馬文学の最高峰と言われるのも頷ける作品。最後、オラシオンが日本ダービーで出走する。馬にとって、それに関わる人々にとって、重要な祈りの瞬間となった。この本は、また少し忘れかけたときに読み直してみたい。きっとまた違う発見があるに違いない。

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Ⅱ.風の向こうへ駆け抜けろ

 風の向こうへ駆け抜けろは、快活な小説。現代小説らしくスーッと読んでしまえる。しかも目次がとても丁度良いところで区切られているので文字通り読みやすい作品だ。上記の優駿は中央競馬の話のみで進行されるのに対して、こちらは地方競馬と中央競馬のそれぞれの事情がうかがえる作品となっている。優駿がフルコースならば、こちらは定食を食べているような感覚。展開もとても早い。近年ドラマや映画などの潮流としてもテンポの速さがとても求められているがそうした枠に比較的当てはまっている。

 地方競馬の女性騎手となった主人公が、中央競馬のG1に挑戦していくという内容。最初こそ堕落した厩舎が最後には目を輝かせて夢を追うサクセスストーリー。一体騎手になるのはどれほど大変な事なのだろう。狭き門を潜り抜け、賞金稼ぎとして戦う。リーディングジョッキーなれるような騎手はとてつもないヒエラルキーの上層。そして才能や努力だけでも届かぬ世界。仕事には常に命の危険が付きまとう。しかし人馬が共に同じ目標に向かって戦うという他にはない喜びもある。それらの一つ一つを咀嚼し噛み砕きながら飲み込む。肌身で感じる風。それらが吹き抜けていくような小説だ。

 現在続編も単行本で発売されている。続きも文庫化されたらすぐにでも読んでみたいところだ。

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この記事を書いた人
滝坂次郎

デジタルもフィルムも愉しんで、写真を撮って歩いてます。

足元を見てみると知らないことだらけ、少しでも自分の世界のものの見方を広げ、他人の楽しみを自分の楽しみにできたら良いなと考えてます。

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