自然は常に自然であったのだ!自然の魅力と脅威について考える。

写真論考

 私はこれまで自然を知りたいという思いがあり、それを撮ろうと志向してきた。今年一年は益々それに向き合うことが出来たと思っていたのであるが、ふと自分の写真を振り返ってみると”実は自然と真摯に向き合ってはいない”ような気がしてならなかった。私の写真では自然の柔和な表情しか見えてこなかったからだ。それは表層的なものを捉えているにすぎず、真なる魅力を映し出しているように見えなかったのである。

 我々人間にとって自然が一度牙をむくと、途轍もない厄災に見舞われたりする。しかし山があり川があり海があり、そうした美しい景観を目にすると、それを形づくった自然のもつ”力”に感銘を受けるのである。そこに山があるという事は造山活動というものが無ければならない。即ち地震や噴火、そして水や風の驚異的な創造力によって、風土は形成されていく。そこには植物や動物たちが暮らし、長い歴史の中で細い糸を一本一本紡ぐように調和していく。私にとってそのような事象にこそ、目を当てなければならない事のように思えた。

 熊本の素晴らしい水。その恩恵に服す私の目には、例えば阿蘇という存在がとても偉大に見える。山に降り注いだ水が地下に浸透し、落葉した木々の養分を含み、更に濾されて川の生き物を育み、里山や街を潤す。またその水が海へと流れ込み、微細な生態系を活性、食物連鎖の中の全ての存在に恩恵が行き渡っていくのである。しかし阿蘇という水がめの成り立ちについて少しでも気を止めたならば、我々にとっての”災害”がその恵みに先立って存在しているという厳然たる事実に気が付くのである。

 そこで自然というものを捉えようとするならば、その実像を踏まえなければ、虚構となりかねない。自然の恐ろしさと美しさは常に共存していて、美しいだけの自然というものはあり得ず、むしろその脅威によって魅力が増していく事にならないだろうか。それは光と影のように常に共存しているものなのである。いやこのように考えるだけでも自然にとっては不可思議な事であるかもしれない。自然を「自ら然る」存在だと捉えるならば、私の勝手な解釈によって観念することすら無意味なことなのかもしれない。ただその成り行きを見つめてみると良いのである。

 ところで私がなぜ星野道夫氏の写真に惹かれるのか。きっとそれは自然をありのままに捉えていると感じるからである。アラスカに生きる生命は明らかに過酷な状況を乗り越えていく。それは植物、動物ともに違いはない。そしてその動物には人間をも含むのである。絶妙なバランスを保つ自然に対する畏敬。そうしたものが心の琴線に触れるのである。

 ここで自己反省するならば、私自身が撮影した写真に対する違和感は、ある種の綺麗ごとで終わらせようとしている点に他ならない。それは本質ではなく虚構なのだ。私の勝手な解釈で自然という存在を捻じ曲げてしまいはしないだろうかという心配すら芽生えたのである。こうした気付きは私にとってはとても有意義で今後の写真の方向性が少し見えてきた気がしている。また一年こうした事を意識した撮影に取り組んでみたいものである。しかしながら、私にとって「自然とは何か。」という問いはこれからも常に存在し続けていくに違いないのである。

この記事を書いた人
滝坂次郎

デジタルもフィルムも愉しんで、写真を撮って歩いてます。

足元を見てみると知らないことだらけ、少しでも自分の世界のものの見方を広げ、他人の楽しみを自分の楽しみにできたら良いなと考えてます。

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