
阿蘇紀行Vol.17
端午の節句を過ぎると初夏。春からこの季節までは人にとって、出会いの季節ともいえる。動植物にとっても繁殖の季節だ。人も自然も出会いの季節。餌を探しまわったり、相手を探したりと動きが慌ただしくなる。野生動物たちとの出会いも必然的に多くなる季節だ。阿蘇は未だ涼しげな風が吹き抜けていて、日の光は暖かい。
目次
阿蘇のキツネに出会う。素晴らしき風景の中で。

夕暮時を前にして阿蘇山上を目指して向かっていると、金色のスラリとした体躯の動物が杉林から杉林へと駆け抜けていった。ただそれだけ一瞬の出来事だというのに、心はそれに惹きつけられたのだ。ただ一瞬の出来事に運転中の私が写真機を構えようなどという余裕はなかったのであるが、その出来事だけでただただ満足する自分がいることに気付いた。この動物は勿論、野生の狐であることは間違いなかった。
山を歩き、出会う風景はいつもまた違う表情。


数年前のミヤマキリシマは素晴らしかった記憶がある。火山噴火や地震など様々な現象も起こった。こうした事に敏感な動植物たち。今年の開花は以前よりも少ないが、だからこその可憐さが見て取れる。こうして草花の盛衰さえも絶えず変化がもたらされているという事に素晴らしさを感じ得る。
この素晴らしい場所では、広大な自然にばかり目を奪われてしまいがちなのであるが、いざ足元を見てみるとそこにも自然の営みがある。野焼きを終えて、雨が降るごとに精力を増していく草原。それでも初夏を迎えたばかりの草原は未だ背丈もそれほどではない。小花は今のうちだと言わんばかりに、一斉に花を開かせている。
初夏/一面が緑に染まっていく。

自然は神羅万象が折り重なり、紡ぎ合って構成されている。小さな事柄や存在の積み重ねが、結果として大きな存在としての自然を形作っているのだ。だからこそそこには常に微細な変化を伴っているものであって、永続的な自然というのは存在しえない。そこに私は日本的な美を感じている。

先日の雨が大地を潤している。米塚の横には湿原のような池が出来ている。その水が米塚の一部分を映し出していて面白い。大地に刻まれた皺のような谷筋。その間にはもうすっかり緑の絨毯が広がっていた。

斜陽の光によって峰々が照らされる。緑の尾根筋と黄の尾根筋。こうしたコントラストが美しい。
阿蘇の里山。出会いの季節。

ポコポコとした丘陵地帯。牛たちが気持ちよさそうに闊歩していた。その大きさを比較すると雄大さが際立っていた。人里では水を貼り始めた田んぼ。今失われていく里山の風景だ。野生動物と人間の営みが緩衝するこの場所は、いまの日本にこそ必要な場所でもある。

田畑が広がる一宮。田園風景の合間を自動車が往来している。手前の草原では牛たちが草原を謳歌している。梅雨入り前の季節を感じさせる阿蘇の風景。
牛たちの背に光が当たり、金色の輪郭を備える。彼らが近くに寄ると、草を食む気持ちの良い音がしてくる。涼しい風が吹き抜ける中の気持ちの良い牛たちの音色。
阿蘇が育むキツネが美しい。


阿蘇古城地区からやまなみハイウェイを登っていく途中に「三閑稲荷神社」という静謐な神社がある。確かにあのような場所に訪れたときに感じる神聖さは通ずるものがある。
きっと彼らも阿蘇の草原に暮らすハタネズミや野兎を追って出てくるに違いない。五穀豊穣をもたらす狐。きっと阿蘇の田畑は彼らによっても守られているのだろう。そんな風に思えた。

帰り道にも出会いがあった。古木に止まるサギたち。
出会いの季節に出会いという癒し。

五月といえば新たな生活が一段落する頃。体調も崩しやすい季節でもある。そんなときに自然というものを意識するというのは、私にとってはとても大事な習慣となっている。新しい門出、出会いも多くそれに疲れることもある。同じ時期、動植物にとっても繁殖期、出会いの季節だ。彼らの行動も活発になるこの時期、こうした素晴らしい出会いに恵まれることが多々ある。そうした時期だからこそ自然の中に身を浸してみて欲しいのだ。きっと出会いに少し疲れた人々が、素敵な出会いに歓喜するに違いない。そしてそんなときには、自分が自然になることを忘れずに。