滝坂次郎

みんな一生懸命に生きている

 自分を見つめると不思議な感覚に陥るときがある。それはいつも自己というものを客観視している自分がいるからである。だからある事象にそれ以上のめりこめなかったりするという部分がある。お酒を飲むときも必ず自分というものがどういう状態になっているかが常に気にかかっている。だからそんなに酔う事があまりないような気がしている。そういう事もあってか、喜怒哀楽というものが他人と比べたときにとても平坦に感じるのである。だから喜怒哀楽をストレートに表現できる人をみていると羨ましくもあるのだ。

 私は勿論、他人と自分を比較する事もあるし、他人を変わっている人だなぁとかってわかった気になっている事もある。しかしふと今の自分を俯瞰してみると、そんな自分もある人から見れば変わった人という事になるのだろうと納得するのだ。だから最近分かった気になって批判することが少し馬鹿らしくなってきている。ある人の価値感から見て、私の考え方こそ異端なのかもしれないという事実に直面するからである。

 日本人はこうこう。外国人はこうこう。とそんな風な比較のようなものが結構SNSやテレビ番組を含めても見られる気がしている。どんな人間にも”違い”というものがあって、どういう価値観のレベルで物事を考えるかという部分に相違があるだけなのだ。そもそも男女というのは違う生き物であるし、そもそも私と他人は違う生き物なのである。そして顔の作り、指の長さ、特徴が一人ひとり違うように、そもそも個体差があって当然なのである。見るという感覚や聴くという感覚だけをみてみても、きっと私とあなたは厳密な意味で違った世界に生きているのである。もし入れ替わることが出来たならば、彼のパーツと私のパーツの感覚は多少異なっているものなのだろう。そうでなければ進化というものが、これまでもこれからも起きる余地はないのだから。

 私は自分の価値観というものを常に絶対だとは見ていないというか、それを押し付ける行為をしない。ただし自分の考えを他人と共有することが大切な事であると思うのである。彼はこういう人。私はこういう人。その違いを理解しておくことに意味があるのであって、私があなたになる必要性を感じないし、望んでもなれるわけがない。そういう意味では、歩み寄るという姿勢のほうを大切にしている気がするのだ。

 こういう事はあらゆることに通じている気がしている。仕事などでも方法論を事細かに教え込むというより、目標を提示して様々なアプローチから達成していく。という方法の方が私の場合は合っている。そもそも誰かの方法論を私が実践したところで、その結果が得られるわけではないのである。

 社会の中にはこういう風に、自分が絶対正しい存在だと見ている自分がいる。でもよくよく考えてみると、皆がそれぞれ絶対に正しい存在だと無意識的に思い、高みの見物したところから他人、物事を批評するのである。もちろん自分の人格というか考えを明確にするには、他者という存在を認識して初めてそれが可能になるのだけど、自分の考えを明確にした辺りで一歩立ち止まって考えてみたいのである。よく考えれば私の意見だって他者から見れば奇特な物なのだと。

 そんな風に考えられるようになると思うことがあった。

 みんな一生懸命生きてるんだからなんだっていいじゃない。

ABOUTこの記事をかいた人

学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。