滝坂次郎

文章を書くことを恐れずに。

 私は様々な場所で、「文章が苦手な人に文章を書かせるには」「文章を書けるようになるにはどうするか」という話を聞いた。その中でも多く言われる事は、上手な文章を真似る事だというのである。例えば朝日新聞でいうところの”天声人語”などを模写するところから始めるべきであるという。それを毎日続けていれば自ずと文章を書くことに慣れていくのであるという話であった。しかし私にとって、そのような文章に一体何の価値があるというのだろうと思ったのである。

 私にとって重要な事は、私の思いの丈を文に乗せるというだけの事。つまり自分の考えがそもそも無ければ、それを伝える手段である文章が書けるわけはないのである。こうしてブログに物事を綴るという事を始めてからというもの、自分が好きな事、伝えたい事、そうした心の底から湧き上がるものを書こうとした際には、文章を書くにこんなに容易い事は無い。そう思うのである。しかし逆にそうした湧き上がるものがない場合、これを文章にしようなどと思う時には、至極思案しなければならない。

 上手い文章を書こうなどと考える。しかしただそれは小手先を学んだだけの事。言い換えると、他人の言葉で他人の考えを述べるというだけの事。自分の言葉で自分の気持ちや考えを伝える事こそ、この文章という”手段”が活きたときなのである。そうした活きた文章というのは、読んでる側の気持ちへ訴えかけるものがあるものなのだと思える。写真も同じで、小手先だけを学ぼうと考えるとただの人真似で終わってしまうのである。自分のものの見方を、そして美しいと思った感性がそこに息づいていなければならない。自分の考え、気持ち、そうした内面を投影するものでなければならないのである。

 文章も写真も私にとってはアウトプットである。自分の内面を放出している事となろう。しかしその内面を形作るにはインプットも重要なのである。インプットなくしてアウトプットはない。見る、聞く、知る、学ぶ、考える、話す、書く。こうしてようやく内面が形作られていく。文章が苦手なのであれば、興味がある事、伝えたいことを記すのが一番である。何故ならそこにはきっと内面が投影されているからに他ならない。だから文章が書けなくて悩んでいるのならば、文章を書くことを意識せずに、物事を知り、学び、考えるところから始める必要がある気がしているのである。

 上手い言い回し、難しい単語、流れるような文章。そうした事が文章の本質ではない。その人の考えをその人の言葉で記す。それが文章を書くという事なのである。そうした文章は技術的なものを越えて、大きく他人の気持ちを揺さぶるものである。文章を書くことを恐れずに。

【随筆】愛国心。自己の中にある記憶。

2017.01.24

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学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。