立田紀行-TATSUTA Nature Park-

滝坂次郎

立田紀行

一眼レフを手に入れて間もない頃、意気揚々と立田山に訪れたのだが、良いカメラを持てばそれなりの写真が撮れると思っていた私が打ちひしがれた場所でもある。当然と言えば当然であるが、カメラというのは道具であって、我々の意図を反映してくれるものである。決していいカメラに使われてはならないのだ。私はこのフィールドで、少しずつ学んだことや失敗した事の反省を繰り返し練習し、実践してきた。そして自分のスタイルを確立できた場所だといっても過言ではない。「初心者は単焦点を使え」とか「一歩近づけ」など多くの媒体で見聞きしていたわけであるが、私はこの場所で実践してみる事で、そうした雑念は無くなり、着実に自分の中の様式が決まって行った。「理由さえあれば」教科書通りにする必要がなくなるのである。

私が立田山へ行く際の参考にするサイト

ところで立田山に行く際に私が参考にしているwebサイトがある。先に紹介。

【個人ブログ】野鳥とともに

陽光の妙

陽光の妙EOS 60D/EF-S55-250mm F4-5.6 IS II/三脚/ISO100:F16:1/40秒

私が未だキットレンズで試行錯誤中のときの作品。立田山で私の撮影理念は形作られたと思う。立田山というのは懐が深い。私にとっては、あらゆる魅力があらゆる場所に存在しているという事実を、いつ訪れても教えてくれる老師なのだ。現在でさえ彼の魅力を十分理解している訳ではないし、一生かかっても難しいことのように思える。スポットを浴びた木はまさにここでいう所の主役であった。しかしこの木はある角度で”のみ”この鮮やかさを見せてくれる。きっと人間の姿勢や精神でさえ、見える角度によって様々な表情があり、それを捉える人間の立ち位置が重要となるに違いないのである。

天狗の落とし物

天狗の落とし物EOS 60D/EF100mm F2.8L マクロ IS USM/三脚/ISO800:F16:1/80秒

立田山で数々のレンズの撮り初めを行った。このときはマクロレンズの初挑戦であったが、立田山はそんな私を歓迎してくれた。時は紅葉も終わった季節であったが、視線をふと足元にうつすとそこには天狗の扇のようなモミジが落ちており、また輝きをまとっていた。今見ればいろんな反省が見えてくる写真であるが、しかし私にとってこの出会いはとても大きかった。これまでの人生においては、足元にこんなに広大で耽美な世界がある事すら知らなかったし、いや、むしろ気が付こうとさえしなかったはずなのである。

擬態-チャドクガ

擬態EOS 60D/EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM/三脚/ISO400:F16:1/5秒

擬態するチャドクガの幼虫。木漏れ日がちょうど幼虫の上に差し込んだところで撮影。物凄く長い毛に日光が当たると虹色に光る。この撮影を行っている時、親子連れの集団が通りかかり、挨拶をしていると男の子から「鉄オタだけじゃなくて森林オタもいるんですね」と声を掛けられる。森林ヲタ。好いネーミングで気に入っている。この自然公園を訪れると少なからず誰かと短い会話を交わす。こうした触れ合いも清々しい気持ちにさせてくれるのだ。

黒き妖精

黒き妖精EOS 60D/EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM/手持ち/ISO400:F5.6:1/640秒

ネムノキの花粉を運んでくれる黒き妖精。ナガサキアゲハ。とても美しい物同士の競演。震災間もなくの6月に撮影。ちょうど我が家も損壊していてしばらく住めなかったのであるが、写真を撮りに行った際、こうした光景を目にするだけで精神が穏やかになるのが分かった。私は立田山を通して様々な動植物の名前を憶えていく気がしている。鳥、植物、昆虫、爬虫類などあらゆる生き物が生息していて、しかも足が運びやすい場所。このような場所が存在していることが幸運なことだと訪れる度に感じている。

ピグモンの出現

ピグモンEOS 5DmarkⅣ/EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM/三脚/ISO100:F16:1/20秒

私はこの光景を見たときウルトラマンの「ピグモンだ!」と心の中で叫んでしまった。これは5D4での撮影であるが、一つ一つの枝の描写を大きな画面で見たとき心の中で感嘆のため息をついた。そのディティールはこれまでの撮影ではおそらく得られなかったものであったからだ。フルサイズを買って心底満足した瞬間でもあった。同時にこの舞台を用意してくれた立田山に感謝の念を覚えたものである。

冬枯れの季

冬枯れの季EOS 60D/EF-S55-250mm F4-5.6 IS II/三脚/ISO100:F5.6:1/640秒

これもキットレンズで撮影したもの。私はこういう雰囲気が好きなのかもしれない。実は写真家においてはエリオット・ポーター氏の写真に心惹かれ写真集を輸入してまで読んだほどなのだが、彼の色の出し方が好きなのである。映像作品でいう所の「ゴッドファーザー」カメラマンのゴードン・ウィリス氏のようなテイストというのだろうか。自然光の美しさの探究。これこそが私に一番必要な方向性かもしれない。

新緑の申し子

新緑の申し子EOS 60D/EF100mm F2.8L マクロ IS USM/三脚/ISO100:F16:1/2秒

夏になれば抜け殻はそこら中に置き去りにされている。しかしこうした被写体も真剣に向き合うと驚きに満ちた発見に溢れる。まず抜け殻にもかかわらずその毛の一本一本も残っていた。今にも動きそうな雰囲気をたたえているのである。高い位置にあったため、首を痛くしながら上を見上げ、バリアングルモニターで撮影した一枚である。そのように考えると60Dは様々な位置からの撮影に対応してくれるのだ。しかもAPS-Cならではの望遠効果が活きていると思う。私はマクロ撮影において、これからも60Dに頼ることになることを確信している。

氷結

氷結EOS 5DmarkⅣ/EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM/三脚/ISO100:F16:1/60秒

冬の立田山においては池が凍り付く事がある。熊本市内に住んでいる人ならばこれは驚く事実だと思う。雪さえあまり降る事がない熊本においては、このような事象を目の当たりにする事など想像出来ない。そしてこの私も同様であった。何気なく早朝に向かったのだが、この氷の上でスケートをする水鳥。この光景を望遠で狙ったが思わしくなかった。その後まずは無理せずにテレコン撮影すればよいものを、近寄って撮影しようという愚行を犯したためにオオバンはものすごい勢いで逃げ込んでしまった。自身の愚かさを恥じた出来事で、野鳥との向き合い方を考える機会となった。

彩々美々

彩々美々EOS 5DmarkⅣ/EF24-70mm F4L IS USM/三脚/ISO100:F16:1/5秒

私は写真を撮るとき考える一つのことがある。それはこの被写体に対して、どのように向き合う事が一番の方法なのであろうかと。人の見る目はその人の経験に基づく価値観(人生観、経験則、常識など)に基づいており、千差万別だとおもう。ある人が見ている世界と私が見ている世界はきっと異なっているはずである。美しさや魅力というものさえ、その基準は曖昧模糊として一定のものではない。だからこそ世界を切り取るだけの行為であるはずの写真でさえ、その人の価値観が反映されるはずである。この木はその形状が丸くてかわいらしい形をしていた。それにもかかわらず、そのときの私はこの画角を選んだのである。写真とは人のものの見方(内面)が反映されているのかもしれない。

森林における教会

森林における教会EOS 60D/EF-S55-250mm F4-5.6 IS II/三脚/ISO400:F16:1/125秒

自然道を散策しているとステンドグラスのような一角を見つけた。これもキットレンズで撮影したもの。私は極端に黒つぶれを嫌ったりはしない。それは主役の魅力を引き出す為なら必要な要素でもあると思う。こうした考え方はきっと参考書で学んだ知識だけでは得られなかったと思う。多くの実践がそういう思想を導き出してくれたと思っている。

写真は「足し算」だったのだ

私は自分のスタイルを導き出すまでに時間が掛かったと思う。よく「写真は引き算である」という言葉を見聞きするのである。つまりは無駄を捨象せよという意味だと思う。とは言っても私は当初、被写体に対面してさえ、どのように撮ればいいのかという悩みさえあった。撮っても撮っても、「これで良かったのか?」という疑問は拭いきれなかったのである。しかし老師はそんな私に多くの事を教えてくれた。そして彼は何も語らず実践を通して学ばせてくれるのである。私の場合、まずその被写体に向き合うために、その魅力を最大限に収める為に、画角の100%を主役で満たす。それでもなお魅力を伝えきれない場合にのみ、少しずつ画角を引いてみるのである。そうすると少しずつ少しずつ画角にその他の要素が写りだす。そこでより被写体が魅力的に映る説明部分を入れた画角で撮影するのだ。つまりそこには「理由」があるはずなのである。理由がないのに主役を食うというのは大変失礼な事ではなかったか。そう己のなかで納得したのである。そのように考えてみると写真というのは「引き算」ではなく「足し算」であったのである。

自然を撮影すると、魅力的な姿も距離が変わると背景も変化する光が順光、側光、逆光と変わってしまって見え方が異なるその形状さえ異なって見えたりするのである。だから近くても遠くても良く、一番魅力的に見える場所(高さや距離)を探さなければならないし、主役を食ってしまわないように脇役や背景を決めなければならない。だからこそ私は自然写真を撮るときは単焦点ではなくズームレンズであり、むやみに近づくだけではなく、左右上下前後と移動している。こうした姿勢は、”単焦点ばかりを用いて撮影”し、その後”撮りたい場所から撮れない苦悩”に直面、そうした”問題を解決したのがズームレンズ”だという事実に基づいている。しかし私にとって今でも単焦点の魅力は損なわれてはいないという点も併せて強調しておきたい。ただこうした学びを得られたことを老師「立田山」に感謝したいのである。

上記はさくら池にてタイムラプスを撮影した。夕陽の中で私が好きな木立の映り込みを撮影したのだが、あまり動きが無くて退屈な絵となってしまったかもしれない。色々なものに挑戦してみているが、その都度失敗があり、その都度修正している。物事を始めたときの「階段の登り初めの感覚」というのも楽しいものがある。失敗は全て今後に繋がっていて人には挫折というものは存在しないのかもしれない。ただし経験を反省するという行為は必要で、その姿勢だけで十分なのではないだろうか。

【さろく旅】熊本中心部。立田山憩いの森を散策。標高152mの頂きへ。

2017.01.01

一日ぶらりとさろく旅。ちょっと歩いただけでもいい「出会い」に溢れる場所。それが立田山である。

ABOUTこの記事をかいた人

学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。