滝坂次郎

それは身近な所で芽生えるもの。

 私は極限られた価値観に支配されている。そして日本の事さえも知らないのである。いや九州の事さえ、熊本の事さえ、今住む地域の事さえ分かっていないに違いない。それでも私の理解する世界は途轍もなく大きい。子供の時よりも知り得た世界は広いとは言えども、このあまりある地球を理解するのには一生をかけてもなしえないのだと理解している。

 例えば、子供の目線から考えるとすると、世界は家庭、通学路、遊び場、学校などで構成されていて、その世界には両親や祖父母、友達、親戚、地域の住民という形で生活する人々がいる。こうした目で見え、耳で聞こえ、鼻でにおう、肌で感じる。そうした全体を包括した価値観の総体の中の住人が我々という事にならないであろうか。私が守りたいのは、こうした共有の価値観を持つコモンズ(情緒的共同体)である。実は国家というのは価値観の総体でしかないと考える。不思議なことに人間は、自分の知っている範囲の極限られた当たり前に支配されているし、極身近な地域のことですら無知なのである。こうした中で、愛国と呼べるものは非常に身近な極限られた関係の中に育まれているのだと感じている。

 そう定義すると、国家とはオカルト的で非現実的で超越した存在ではなく、身近で現実的で極ありふれた存在なのではないだろうか。過去に戦争へ向かった人々は本来政府のために、政府を守ろうという気持ちで出征した訳ではなく、家族を守らなければならない。自分が戦争に行くことで家族が、子々孫々までが後ろ指をさされずにこの地域で生きていける為には。という切腹する武士の様な気持ちで戦地へ向かったのではないか。そう思えるのである。人は死を悟ったとき、母を想うという。これこそが愛国心そのものなのではないだろうか。

 私は地元の事さえ十分に理解したとさえ思えないし、これからもその事実に直面し続けるのである。様々な場所にはそれぞれに連綿と続く歴史を抱えている。例え地理的にその土地の事を隅々まで知り得たとしても、それだけでそこを理解したとは言えない。ここには時間軸も含めて考えなければならない性質のものなのではないだろうか。

 ところで、時々家の周囲を散歩してみると多くの発見をすることが出来る。「こんなところに地蔵が立っていたのか。」「こんなところに石碑があったなんて。」という具合に、普段その場所を行き来していたとしても、それに気付こうとさえしていなかった自分に気が付くのである。ただしその小さくとも新たな発見は感動をもたらしてくれるものでもある。そうした出来事が、私に何らかの影響を与えているのであろう。そうして私の心の中が、更に絵筆で彩られたような、闇が照らされたような。そのような気持ちになる。

 きっと愛国心とは、難しい物ではない。誰にでも備わっている心の拠り所。身近な関係性。そんなものなのかもしれない。掴もうとすると空を切って消えてなくなるというようなものではなく、必ずやそのあたりで目で見て、耳で聞いて、鼻でかいで、手で触れられるもの。私にとって愛国心とはそういうものなのである。

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学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。