【随筆】普通じゃないは普通のこと

滝坂次郎

普通じゃないは普通の事

私自身の話でもあるのだが、大体すべてと言って良い程の人が自分を棚に上げて物事を考えるのである。「最近の若者は」とか「今どきの老人は」とか漠然とした大枠で語る。しかし面白い事に、大体すべての人間が「私」というものをそこに含めず、高みの見物であるという態度なのだ。例えば、殊更「人と違う」と胸を張ったり、「人と同じ」だといって隠れたがるのである。

私はいつも考える一つの事実がある。それは全ての人間が普通であり、普通ではないという事なのだ。どういう事かといえば、「私」という基準で物事を考えた場合、家族であれ友人であれ地域住民であれ国民であれアジア人であれ地球人であれ動物であれ、それは自分とは異なる存在であるという当たり前の事実がある。つまり自分を基準にした場合は全ての人が普通ではないのである。同時に、それぞれの価値観で物事を鑑みれば、すべてのものが普通となり得る。己の価値観とはこうした価値観の総体の中にあるのだ。

そのように考えると、人と違うということが人と同じことである。

家族と会話するとき、家族という価値観を共有していればこそ、会話が成り立つのだと思える。友人と会話するときも価値観を共有しているのである。そのように考えると、どの立ち位置に立って会話するかという事が重要なだけであって、すべての人間と価値を共有することが出来るのである。人は往々にして「違い」について敏感である。しかしこのように考えると自分という価値の基準さえも、世間一般の基準からすれば違っていて当然であることに気づくはずなのだ。私は思う。価値観を共有しようとしないのは他者ではなく、自分なのであり、他者の違いについてあげつらう時、自身のほうに問題がある可能性があるのだと。

「最近の若者は」「今どきの老人は」と言ってみた本人さえも、とある基準に依拠したときには実はその中に入っていて、ただ批判の対象となっているのである。その大衆は自分を鑑みることなく、ただ怠惰に日々を送るのみで、自堕落に生きる事となる。価値観を押し付けるより、同じ価値レベルを共有するほうがよほどお互いの為になるのではないだろうか。

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学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。