【随筆】私の生き方とその意味。

滝坂次郎

生きるという事の意味。それは視野の広がり。

「私はなぜ生まれてきたのか。」そう考えに至ったのは幸運な事だった。少なくとも自分と向き合う時間が持てたという幸運があったのである。常に情報に囲まれていたら、その情報を自分なりに咀嚼し、再定義するという時間を持てなかったと思う。今でも時々思う。それはあらゆる情報から離れて自分と向き合う時間を持たなければならないということだ。

ところで人というのは良いとき(上がり目)悪いとき(下がり目)というのが必ずあると思う。私はそれを短期(フロー)と呼んでいる。しかし長期(ストック)でみると必ず人間は生まれたときよりも向上しているのである。それは様々な経験と発見により、より楽しさ(視野の広がり)を見つけた人間だからである。ある時、フローでは悪いときのように見えた経験はどんな結果を迎えたにしろ、その人にしか味わえない経験なのである。それは財産といえる。つまりストックで見てみるとすべてはプラスに働いているのである。

経験知

たとえ目の前に壁というものが立ちはだかったとする。私はそれを「逃げるんじゃない」「乗り越えろ」とか「ぶち壊せ」という話をよく聞くのだ。しかしどんなに長く、大きいとされている万里の長城さえも両端が存在している。たしかに時間はかかるかもしれないが、それでも迂回してもいいのではないかと思うのである。私は全てを最短で効率的にこなすことが人生にとって必ずしも絶対的な方法ではないと常々思っている。迂回してどんなに時間が掛かっても、そこで見た風景、聞いた音、嗅いだ薫りというのは常に経験となる。血となり肉となるのだ。

だから当然その壁を乗り越えるときがあっても、壊すときがあっても、迂回するときがあってもその選択肢は全て結果的には最良な道となり得る。壁を壊した人と回り道をした人が「同じ経験が出来るのか。」というとそうではない。だからこそどちらにも意味があるのだ。ただその選択をするのは自分であるということのみが課せられる使命である。

私はそれに冒険というのは常に前に進むだけではないと思う。故に前に進み続けられるのである。例えば知らない土地で言葉も分からず、バスや列車に乗ったとする。一か八かの選択肢かもしれない。しかし考えてみるとバスや列車には必ず反対路線もあるのであり、間違えたら戻ればいい。それが心の保険として常に用意されていさえすれば、歩みを止めず、不確実な世界にさえ飛び込むことが出来る

私はなぜ生まれてきたのか。それは楽しみ(視野の広がり)を見つけるためだという信念を持つ。と同時に生まれて来たときよりも既に、いやその瞬間から高みにあるのだ。だからこそもう生まれてきたことに意味があったということになっている。

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学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。