
子供の「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という疑問
子供の頃、怠け者でどちらかというと天邪鬼の私は「何故勉強しなくちゃいけないのか。」という事についてしきりと考えていた。そうした疑問は当時なかなか考えもよらなかったが、今だからこそ、そうした自らに沸き起こる疑問に答えることが出来る気がしている。
他人には解決できない疑問について、自らの頭で考えるようになるための素材がこの勉強に含まれていたのである。これこそが勉強する意味の一つであろうと思える。
以下は私の場合の勉強する理由。
第一の視点。財産の相続。

ところで人類は原始、現生人類(ホモサピエンスサピエンス)が登場した25万年前頃より脳の容量は変わっていない。しかしながら我々の身の回りのものは明らかに発展・発達していて、いわゆる文明社会の恩恵に服している。
これは何故か。そのように考えると、知識や技術の伝承が行われているからに他ならない。つまり「相続」である。相続によって限りある人生をより永続的なものへと変えている。過去からの遺産を現代が引き継ぎ、また未来へと受け渡す。この過程が相続であると考える。金銭や土地の相続以上に、我々は様々なものを先達から受け取っている。
しかもこれは血の繋がりに関係なく、垂直的水平的なあらゆる人々からの相続である。
だからこそ私は、勉強する意味というのは相続する行為だと捉える。勉強しない事は途轍もなく勿体ない事なのだ。我々は貧富に関わらず、莫大な遺産を受け継ぐことが可能なのである。ある人の一瞬の閃き、ある人が一生かけて知り得た事をたった数分、数時間で教わる。それを土台に次の事を理解し得る。私はこうした事実だけで、「相続とは何か」「文明とは何か」「勉強とはなにか」という様々な疑問を解決できると思っている。
お金持ちであろうと貧しかろうと、莫大な財産を相続する。それが勉強という事なのだ。勿論所得格差が教育格差へと繋がっている昨今、財産を相続する門戸は誰にでも開かれているという部分がとても重要だと考える。
第二の視点。真理の追究。

世の中に真理という目に見えないものがあるとする。その真理は球体をしていると仮定する。球をある一方のみしか見ない場合、それは円である。また他方から見ると円錐であるかもしれないし円柱であるかもしれないし未だベールに包まれている。
つまり真理に近づくには多方向から物事を俯瞰することが必要なのだ。
得手不得手に関わらず、歴史や数学といった様々な角度のものの見方を知る事が重要となる。我々がパンドラの箱に残した「未来予知」をするためには、このことが必要であり、ただ一方に偏った見方だけでは空想と比して変わらない。様々な方向からその形をつかみ取る事が、球という解の近似値に近づけるのである。そしてこのことが私の子供の頃の疑問への答えとなる。
現実社会というのは、いや自然界そのものが未知のことに溢れていて、それが折り重なり紡ぎ合って現在を構成している。そのように考えると一方の見方のみを信じて判断するのでは、現実を知るという事にはならない。
可能な限り自分の判断を現実に即したものにしようとするならば、ものの見方さえも多様性を帯びていなければならない。それは専門知識を持つというだけではなく、専門知識の横断が必要になるものだと考える。
勉強は面白くないものなのか。
本来知らない事を知るというのはとても楽しいことで、知的好奇心を満たすという快感は誰しも味わったことがあるもの。そのように考えると「知る事」そのものを嫌いな子供はいないものだと思える。
学校教育は画一的である必要があり、それについて行けない子供やそれ以上に理解が進んでいる子供がいる。そこで取り残されているような疎外感を味わう事は当然出てくる。そんなとき学校だけがその責を負うべきなのかというとそうでもない。学校の成績ばかりが学習だと考えるのも早計であるが、少なくとも家庭環境もとても重要なのだと思われる。
きっと歴史が好きな父を見ていれば歴史に興味を持つ機会は多くなるであろうし、絵が好きな母が居れば絵が好きになる機会は自ずと多くなる。勉強は強いられるものでもあるのだけれど、逆に自ら取り組む学習の面白さは別に担保されているべきなのだ。そうすると学校だけの成績に拘っているのも滑稽であると言わざるを得ない。
知性には多様性とバランスが必要なのだ。
勉強の仕方が分からないという子供がいたとして、どうすれば勉強の仕方を教えられるか。机を並べて子供と別々に読書をしてみてはどうだろうか。子供にたまに質問してみてはどうだろうか。きっと同じ時間を共有すると多くのことが見えてくるのではないだろうか。彼がポケモン博士になっていたら、とても嬉しい事。それは勉強の仕方が分かっている証拠なのだから。
たとえ勉強そのものを教えられなくても、そうした時間を共有することはきっと手掛かりになる。