【随筆】日本の杜と里山

滝坂次郎

【随筆】日本の杜と里山-個人的見解を綴る

明治のおりには、燃料や材料ともなった木々は、その多くが伐採されていった。そんな中にあって南方熊楠という賢人は、日本人としての精神性が破壊される事を嘆き、またその将来を憂慮した。確かに歴史の後裔たる我々は自然を意識して生きる事それ自体が少なくなっている。しかしながら、我々は古来自然と共に生活してきたのではないだろうか。森の中に身を浸すと、いやその森を見つめるだけで、我々に埋め込まれたDNAは反応し、その杜への畏怖と崇敬の念を抱くのである。日本は森林、山谷に囲まれている。またこの土地で育まれる幾多の動植物の多様性は世界的にも珍しいホットスポットだ。この受け皿の広さと深さが我々の精神性に大いに寄与する、しているに違いない。私はこの日本の杜を見つめなおし、認識することから始めたい。

日本の杜-里山

日本のGDPにおける農林水産業の割合は1.5%ほどで、総就業人口に占める農業就業人口の割合も2%ほどしかない。このような状況においては、これらの産業をある程度犠牲にしてもやむを得ないという意見も多く見受けられる。しかし日本の森林率は約7割となっている。中山間地域などの里山を維持することは、現状として必要不可欠な課題である。近年度々発生する豪雨災害や土砂災害、都市部においてはゲリラ豪雨などにおける都市機能の麻痺、または野生動物との境界が曖昧となって起きる被害などが目立つようになっている。

地球環境の変化は絶えず起こりうるもので、こうした変化は一時的なものなのかもしれない。しかし私は雑木林や原生林のもつ生命力や生物多様性の保持、または保水力、防災力などの観点から農村の荒廃、地方の荒廃が招くあらゆる問題について憂慮せざるを得ない。実際、経済合理性の原則から考えると、効率化が至上命題であり、これまで人間生活というものを機械的、数理的にのみ把握しようとしてきた「経済人モデル」はあらゆる問題を表面化させてきた。人間というものは全て合理的なものであるという前提でのみ成り立つモデル化された非現実的な経済学を用いて、人々を深い霧の中に押し込めていた。こうした考え方は、現代でさえも未だ衰えず現役なのである。

日本の杜-ヤマフジ

世界的に見ても日本の河川は一般的に一年を通して流量の変化が著しい。これを現わした係数を河況係数というのだが、この数値の高さは河川氾濫の指標となる。日本の河川は総じて係数値が高く、氾濫しやすい河川であることを物語っている訳である。こうした事実は生物の多様性とも深く関係している。高地から低地まで狭い範囲に存在している事が長雨などを招き、大いに動植物の楽園を築いているのである。古事記におけるスサノオのヤマタノオロチ退治が河川改修を現わす説がある事からわかるように、この問題は深く歴史に根差した問題でもある。明治時代にいくら治水工事をしても氾濫が止む事は無かった渡良瀬川があった。足尾鉱毒事件で有名な田中正造は、当時行われていた河川改修のあり方を責め、かえって状況を悪化させていると大いに嘆いた。またその根本的な原因は足尾銅山によって植物が死滅し裸山になったことによる保水力の低下だと考えたのである。こうした問題は未だに現役である。都市部で多発するゲリラ豪雨による被害。土砂崩れ、洪水。その問題に対処できるキーワードはまさに「保水力」であろう。

日本の杜-水源

また現代では世界的に見ても水不足が深刻化している。これは世界的な人口増加も影響している。食糧生産に使う水の割合は非常に多く、仮想水問題が指摘されるゆえんである。水不足が深刻化する発展途上国は食糧輸出国である場合が多い。また日本が食糧輸入に頼るオーストラリア、ブラジル、アメリカなどでも水不足の問題が浮き彫りになっている。日本の農林水産業の衰退に伴うこうした問題についても同時に言及しておきたいところである。

ところで農林水産業の振興は、上記に示したいくつかの問題を改善することが出来ると考える。明治時代には原生林、いわゆる鎮守の杜を破壊してそれを元手に多くの経済発展を手にしてきた。ところが現代においてはその林業が衰退し、里山の荒廃に繋がっている。放置林において問題なのは、杉の根にある。密生していない場合、きちんと手入れされた山においては地中深くまで根が張れるのに対して、密集した場所においては、生育状態が悪化する。即ち互いが根のはるを邪魔し合ってしまうのである。こうした場合に土砂崩れや保水力の低下を招く。対して原生林(極相林)というのは極めて保水力が高く、地震や火事などあらゆる自然災害に対して強い耐性を示す。その証左として東日本大震災において津波に飲み込まれたにもかかわらず、その姿を留めていた事例は近年では有名だ。

日本の杜-冬枯れ

つまり放置された杉林から漸進的に極相林へと移行させていく必要性が高まっているのではないだろうか。しかも極相林の光景はまさに美しい。日本の杜の美しさには目を見張るものがある。これは観光資源でもあるわけだ。農村の荒廃の問題の一つにミツバチの減少問題がある。ミツバチは生物多様性に影響しているし、農業には欠かせない性質がある。これらも解決していく手段でもあるのだ。まとめると、花粉症等医療的問題、生物多様性の問題、食料の問題(山の問題は川の問題であり海の問題)、災害の問題、水の問題、精神・教育上の問題、観光の問題を含む大いなる希望だ。

もちろん人口ダムも必要であることは踏まえたうえで、こうした議論が活発になることを望む。またきちんと手入れされた杉林は問題ではなく、放置林が問題だという事も伝えておかねばならない。手入れが為されるためには、やはりこれもまた里山で生活できることが必要不可欠なのだから、木材ペレットの実用化などあらゆる観点から考えられるものでなければならない。日本の杉林の活用と、放置林の極相林化は同時に行う必要がある。それから実は一度原生林ではなくなった森を元に戻すには時間が掛かり、同時に人の手が必要不可欠である。だからこそこれをするためには公共事業としてなされる事が一番であると思える。人工物は耐用年数という考え方があるのに対して、非人工物である原生林(極相林)に耐用年数という考えはない。これは建設国債としての趣旨に合致している。現役世代・将来世代ともにとって重要な資産となるのだから。

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学生時代にドイツを一周。ジャーマンレイルパスを使って鉄道の旅だった。そのとき始めて触れる空気に圧倒されたのだが、南ドイツに行くにつけ何か懐かしい空気を感じていた。放牧された牧野や美しい川が流れる渓谷。森林の中での散策。そんなときふと思い出したのは地元熊本の阿蘇だった。その景色や空気は阿蘇と似ていた。しかし、南ドイツにも阿蘇にも代えがたい魅力がある事に気づく。私は日本を一周した事がない、それと同じで多くのドイツ人も国を一周した事はないに違いない。私は極限られた自分の生きてきた土地のことも知らなかった事に愕然とする。生きている場所、熊本の魅力は何か、日本の魅力は何か、きっと多くの発見が身近に潜んでいるに違いないと思えた。そんな地元の魅力を発見、いや再発見していくのがこのブログの目的だ。多くの事実を知り、多くの方とそれを共有していくことが出来れば、私にとってこの上のない喜びである。